時々昔を思い出すんだ。あんたの隣で笑って、泣いて、喜んで、怒って、そして幸せを感じた事を。でも今じゃただの元彼。そんであんたには可愛い可愛い彼女がいる。だからって悲しいわけじゃない、こうやって惚気を聞くのにももう慣れたから。
久しぶりに若菜から連絡がきた。いつもの場所に20時、と。文の終わりにはデコメの絵文字が載っていた。あたしは分かった、とだけ返事を返す。もちろんデコメなんて使わない、だってめんどくさいじゃん。
若菜からの呼び出しは大概が彼女の話だ。惚気だったり愚痴だったり。でも愚痴でさえも、若菜の言葉には愛情がこもっているように聞こえる。それをあたしは聞いて、ふと、昔の二人にかぶせてしまう。
化粧を終わらせ時計に目をやると針は後10分で20時を指すところだった。あたしはタクシーを呼び、荷物を手に取り外に出る。街灯の光が夜の空を照らしている。五分ほどしてタクシーは来た。さんですか?の問いにそうです、と返事を返し車に乗り込んだ。もう一度時計に目をやると、既に20時を過ぎている。携帯を取り出し、若菜に遅れる、とだけメールを打った。
10分ほどして待ち合わせ場所に着いた。代金を払い店に入るとマスターが小声で、彼荒れてるよ、と言ってきた。あたしはただただ苦笑いを浮かべて、いつも若菜が座る場所に目を向け、あたしはその隣に腰をかける。マスターはすぐにカクテルを用意してくれた。
「なに、喧嘩?」
鞄の中から煙草とライターを取り出す。付き合っていた頃、吸うならせめてメンソールにしてくれ、と若菜に言われた。付き合っていた三年間、ずっとメンソールを吸っていたけど、別れてからそれをやめた。若菜はあの頃、キスするときに臭い、と言っていた。だからか、煙草を変えても若菜はなにも言わなかった。
返事を待っている間に煙草を一本を取り出して火をつける。
「別れた」
ちょうど煙草が吸い終わる頃、やっと若菜は答えた。あたしは言葉を探しながら、短くなった煙草を消して新しい一本を取りだした。火を付けて、目の前に運ばれていたカクテルに口をつけた。氷が小さく音を鳴らす。
「あいつ他に男がいたんだぜ、笑えるだろ」
若菜はそう言って目の前の酒を飲み干す。そしてマスターにもう一つ、と注文をいれている。マスターは苦笑いしながらグラスを下げて、新しいカクテルを用意し始めた。一応形だけ若菜にもうやめなよ、と言ってみるけど、若菜はうるせーと返事を返した。
「寂しいとか言ってさ、俺だって寂しくないわけねえのに。でもサッカーも大事だし、あいつを優先したらサッカーが疎かになるし。どうしろっつーんだよ」
「そうだね」
こういう時、若菜はあたしに答えを求めているわけじゃないと知っている。ただ誰かに話を聞いて貰いたいだけ。余計な事を言ったって、拗ねてしまう。それは23歳になった今でも変わっていない。寧ろ、若菜はなにも変わっていない。
「はー、馬鹿らしいな」
若菜はあたしの顔を見て、少しだけ悲しそうに、でもいつものように笑った。
「俺、お前と別れなきゃよかった」
そしていつものようにその言葉を言った。若菜は落ち込んだりすると、いつも決まってこの言葉を言う。
若菜は知っているんだ、あたしが若菜の言葉を拒絶できない事を。それはずっと昔からだった。若菜の言うことにノーと言えば嫌われてしまうような気がして、あたしはずっとイエスしか言えなかった。なのに若菜は、お前がなにを考えているかわかんねえ、そう言ってあたしから離れていった。
若かったあたしは、そんな事でしか相手を繋ぎとめる方法を知らなかった。ただ好きなだけだった。嫌われる事を恐れていただけだったのに。でも当の相手は、そんなあたしを解らない、そう告げた。
「出ようぜ」
若菜はそう言うと、財布を取り出しマスターにお金を渡した。若菜はイエスしか言えないあたしを知っている。知っていてまたこうやって都合よく使う。それもまた利害一致で、嫌と思う自分はいなかった。
別に若菜に未練があるわけじゃない。ただ、この人以上に好きになれる人がいないんだ。人に言えばそれは未練だという。でももう一度若菜と寄りを戻したいとかそんなんじゃないんだ。あたしはただ、若菜に恋をしていたいだけ。あえて言うならば、若菜に恋する自分が好きなのかもしれない。
タクシーに乗り込めば、若菜はホテルの名前を運転手に告げる。運転手とミラー越しに目が合うと、その目はニヤニヤと気味の悪い色をしていた。若菜はそれに気付いたのか、あたしの手を握る。昔から若菜は、あたしの微妙な感情の変化に気付いてくれた。でも、なぜか肝心な部分でお互い解り合えないでいた。そうやって年を重ね、今ではこんな関係になっているのだから笑ってしまう。
ホテルに着くと、若菜はそれなりにいい部屋のボタンを押す。すると取り口からキーが出てくる。行こうぜ、若菜はそれだけ言うとエレベーターのボタンを押した。あたしはただその後ろをついていく。久しぶりだなーなんて色気のない事を考えながら。若菜の後姿を見ていると、どうしようもない切なさを感じた。薄い茶色の髪の毛が癖っ毛で、あたしはそれを触るのが好きだった。若菜はあたしがそれを触ると、少し照れたようにはにかんだ。それは中学生の頃の幼い二人で、体を重ねるという事さえ知らない頃だった。
「おいで、」
部屋に入ると若菜は上着を脱ぎソファの背もたれにそれをかけた。そして、あの頃とは違う大人の笑みでそう言った。あたしはなにも言わず、若菜の胸に顔をうずめる。若菜の大きな手があたしの頭を撫でた。それはとても気持ちがよくて、あの頃は知らなかった大人の手だった。
「、」
若菜があたしの名前を呼ぶ。彼女が出来てからずっと、この温もりに触れてなかった。目頭が熱くなるのが分かった。若菜は耳元で、何度もあたしの名前を呼んだ。それはあの頃を思い出させるほど優しい声で、ただあたしはその温もりをかみしめていた。若菜に抱きしめられる喜びを思い出す。
ベッドに倒されて、若菜の甘い言葉と甘い愛撫に酔いしれた。若菜は悲しみをぶつけるかのように、何度も何度もあたしを求める。大人の付き合い、そう割り切って、あたしは目を瞑って、昔若菜が言ってくれた言葉を反芻した。
―好きだ、愛してる―
まるで壊れ物に触れるかのように、若菜はあたしに触れた。でも、キス以上はなかったあの頃。ひたすらにあたしはそれを思い出して、必死に若菜に抱きついた。
あの頃の二人を思い出すかのように。
それを人は恋というけれど
恋にしてしまえば消えるものならば、あたしはずっと二番目で在り続けたい。
「お前、俺の事好きだろ?」
「さあね」
いつか失ってしまうのならば、曖昧なまま傍にいるほうがいい。例え目の前で彼が悲しげに笑っていても。
「っそ」
若菜のその返事は夜の澄んだ空気に消えていった。