タイミングってこういう事なのかな、そう思うのは何年も先の話。
日陰に咲く花
高鳴る想い。
10月6日。遂に明日は体育祭だ。中学校生活最後の、体育祭。日が近付くに連れて胸に込みあがる想いは目を熱くさせた。感傷に浸るのはまだ早いけれど、なぜだか切ない気持ちが胸を締め付けた。そんな事思いながらベッドの中に入るけれど、遂に明日だ、そう考えると中々眠れない。まるで遠足前の小学生のような自分に少し笑えた。そしてなんとなしに携帯を開く。ディスプレイに受信メール三件の文字があった。二件は迷惑メールだったけど、一通は郭君からだった。本文にはただ一言だけ、明日は頑張ろうね。それは郭君らしいシンプルな内容だった。絵文字も顔文字も付いていないけれど、それを見て私の冴えていた頭も少し落ち着いた。郭君の団長姿楽しみにしてます、おやすみ。そう返して携帯を閉じると、少しずつ意識を手離していった。
朝、目覚ましの高い音に起こされて目を開ける。カーテンから柔らかな朝日が差し込んでくる。手には携帯があった。どうやら私は携帯を握りしめて寝てしまっていたようだ。返事はないだろうと思いながらも携帯を開くと郭君からおやすみ、というメールが入っていた。私はなぜだか嬉しくなって、おはようと返事を返してみる。そして携帯を寝巻のポケットにいれてリビングに向かった。
「おはようお母さん」
リビングに行くとご飯の美味しそうな匂いがする。お母さんが作ってくれているお弁当の匂いだろう。毎年この日はお母さんのお弁当が凄く豪華になる。小学生のころからそれが嬉しくてたまらなかった。
「おはよう。あ、味見してみる?」
そしてこれも毎年聞かれる言葉だ。私は絶対にそれを断らない。特にお母さんのダシ巻き卵と唐揚げは凄く美味しいのだ。
「いただきます!」
ふふ、と小さくお母さんは笑って、小さなお皿におかずを何品か装ってくれた。私は食器棚から箸を取り出しお皿を持って椅子に座る。いただきますと手を合わせて装って貰ったものを口に入れる。やっぱりそれはとても美味しかった。私は全部を食べ終えてお母さんにごちそうさまを告げる。お母さんは家族みんなで行くから頑張ってね、と返事をくれた。
部屋に戻ってパジャマから制服に着替える。その時携帯を開くと、また郭君からメールが来ていた。今日、一緒に行かない?その一言を見て私は急いでアドレス帳から郭英士を出して電話を掛ける。ワンコール、ツーコール、スリーコール…そろそろ切ろうか、と思っているとはい、と電話の向こうから返事が聞こえた。
「あ、お、おはよう!」
自分から電話を掛けたくせに電話が苦手な私は喋り出しに言葉がどもってしまった。電話越しに小さく郭君が笑った声が聞こえた。
「うん、おはよう。メール見た?」
「うん、今見たの。遅くなってごめんなさい」
「気にしないで。ていうかね、もう桜木町の駅まで来てるんだ」
「ええ!」
「早く起きちゃってさ」
「じゃ、じゃあ早く行きます!」
「いいよ、ゆっくりで。待ってるから」
「分かった!じゃあまた後で!」
私は郭君の返事も待たずに携帯を閉じて荷物をまとめる。こんな日に限ってなんの用意もしていない。いつもなら朝忙しくないでいいように、と用意をしているのに。荷物を詰め終わって、忘れ物がないかチェックする。体操着、はちまき、水筒…と確認をし終えてから洗面所に向かい、髪の毛を一つに結う。長い間切っていない髪の毛は腰まで伸びている。毎朝それを結ぶのだけど、なぜだか今日は綺麗に出来ない。なんとか用意を終えて、リビングにいたお母さん、そして起きて来たお父さんと弟に行ってきますと告げて家を出た。
なんだか今日は足取りがすごく軽かったんだ。
この日の事、今でも覚えているよ。好き、だなんて言えるほどはっきりとした気持ちはなかった。でも郭君と過ごす時間がとてもとても穏やかだったから、あの空気はいつも心地よかった。